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トンネルを抜けたら現実だった

人生楽しいです

愛着障害と言われてたことを思いだした
毎日人に混ざって暮らしていてどうにも違和感があると自分で常々感じてました。

行動や言動は誠実さを心掛けているためか、他人に対しておおむね大変に優しかったりします。

でも「鈴鹿さんは優しいね」と言われると違和感を覚える。

確かに言動や行動が一般的に優しいものだというのは承知していたりしますし、

その言動や行動のもととなるものも人気取りや金銭目的だったりはしないのに、

自分の中に「優しい」という言葉と対応するような温かい気持ちが見当たらないのです。



距離感を大事にできます。だから自分を大事にできて苦しんでる人と共倒れもせず、結果他人にあまり迷惑をかけることなく、自分と他人を同時に大事にできていると感じられます。

反面、人と密着できません。

もっと人に頼ってもいいのではと思っても頼れません。
自分のことはほとんど一人で解決します。
それは一面ではいい事なのかもしれませんが、過ぎると孤立しがちです。

ですが、未だに人との距離感を大事にしすぎて、人間の営みの蚊帳の外だという感じがします。


どうしてだろうとずっと思っていましたが、子供の頃に散々な時代を過ごしていた原因の一つである(お嬢様がボランティア精神でやってた)臨床心理士から「愛着障害の傾向あり」と言われていたことを思いだしました。


私は、ほとんど誰に対してもかなり愛想がよかったりします。
でも、一個人や少数の個人にあまり干渉しようとしません。というか、なかなかできません。


愛着障害について少し調べてみたら、色々と腑に落ちることが多かったです。


私がまず思ったのは、「私は愛着障害でなかったなら、いま生きてはいなかったんじゃなかろうか」ということでした。


他人に対して健全に愛着を持てる性質であったなら、愛着を持つことが自然で当然だという意識で生きてきたなら、今までがあまりに孤独すぎて死んでいたかもしれない。

愛着が自然で当然という意識がなかったからこそ、親からの愛情を感じられず友達もできず薬害で呂律も回らず周囲からコミュニケーション可能な生き物だとすら思われなかった時期も生きてこられたのだと思いました。

愛着障害だったからこそ、一人でも生きられたのだと思います。

だから、私はいま生きていることが一番の奇跡だと思っているので、愛着障害自体、あまりネガティブには思えません。

ただ、これから生活していくのには、愛着障害について少しは考えた方がいいような気がしてます。


日本昔ばなしの「にんげんっていいな」を聴くと未だに涙ぐんだりします。

本当は、早くにんげんに混ぜてもらいたいんです。



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